「神学は銅メダル、説教は銀メダル、
クリスチャンとしての生き方は金メダル!」
 
現役の牧師時代に大いに用いられた有名な隠退牧師数人が共に集まり、良い対話の時間を持った。
その話を要約すると、彼らは若かった時には世界的な神学者になりたい! 力ある説教者になりたいと考えていた。
しかし彼らは牧師を隠退してから、もっと大事なことが見えるようになる。
それはクリスチャンとして生き方をすることだと彼らは口をそろえて主張したのである。

彼らの口から「神学は銅メダル、説教は銀メダル、クリスチャンとしての生き方は金メダル!」という話まで出てきた。

神学や信仰が分からなくても問題になることではない。説教があまりできなくても問題になることもない。
クリスチャンとして変えられた人生を生きることができないのが問題なのである。
教会やクリスチャンがこ の世の人々と同じような心配や思い患いをしている場合が多い。
いつも問題になるのは、自分自身が変えられた、救われたクリスチャンとしての揺るぎない人生を生きているのかという、自分との戦いである。
教会のリバイバルの課題も、クリスチャンとしての課題も究極的には、クリスチャンとしての生き方の問題である。
私たちは人々の前で自分自身がどう評価されるか?に関心を持つより、神様の御前で私はどういう存在なのか?
に関心を持たねばならない。

キリストの十字架の苦難が、キリストの復活の栄光の勝利が、
変わることなく今日も私たちを通して働いていることに感謝!
「問題がないのが祝福ではなく、問題に打ち勝つことが祝福!」
神はご自身を愛する者には十字架の苦難や問題や重荷を与えて下さる。
イエス・キリストの十字架はまさにそのようなものである。
神の前で十字架の苦しみを負わねばならなかった十字架の苦難の時間は、神がイエスをお隠しになった時間である。私たちは神が私たちを隠された時間には焦ったり、心配したりする必要は全くない。
人に認められなかったり、失敗や苦難の中にいる時、私たちが悟らねばならないのは、私と神との関係において親密な関係が維持されているなら、必ず神は私たちを用いられ、遣わされるということである。

交通事故が起きた時、私たちは怪我をしてなければ神に感謝すると言う。
問題の中にいる時こそ、私たちは神に感謝するのである。人は問題が起きなければ生来的に感謝 がなかなかできない存在である。

真の成功とは、最後までこの世のどんな人よりも、どんな物よりも、神を愛する者としていれることである。私たちが死んでから神の御前に立つ時に神が私たちに尋ねられるのは何か?
神は、私たちが地上で神の名でどのような偉大な働きをし、たくさんの奉仕し、どれほど聖書を読んだか?どれほどたくさん祈ったか?を尋ねるないのであろう。
神が私たちに尋ねられるのは、「あなたは地上でどれほど私を愛したか?愛する者であったか?」
時々神は私たちを十字架の苦難のように、私たちを隠される。その時に私たちが主と共に歩み、主を第一にし、主を心から愛しているなら、神によって隠された時間は神に用いられるために備えられる時間であり、問題に打ち勝つ祝福の時間 なのである。問題がないのが祝福ではなく、問題に打ち勝つことが祝福である。
ハレルヤ!
「良いストレスと悪いストレス」

ストレスには二つある。
良いストレスは健康に有益なものであり、悪いストレスは健康を害するものである。
私たちはストレスというと、悪いストレスを思い浮かぶが、ストレスはそんなに単純なものではない。
問題はストレス自体にあるのではなく、ストレスに対する私たちの反応と態度にあると言える。
人を愛する人、ビジョンや夢のある人、使命感のある人たちは若干の犠牲を支払うのは当然なものとして考える。
探検家や冒険家は苦難や苦労を恐れない。
私たちがイエスの弟子として生きるのもストレスであることは間違いない。しかしこれは良いストレスで、イエスの弟子として生きるときに、私たちには豊かな実り、心の平安、真の喜び、人々を心から愛することになる。
人間には適当なストレスは必要で、神様は私たちの内面の成長と成熟のために良いストレスを用いる方である。
また、いつストレスが必要か、どれ程必要なのかは神様が定められるだろう。
神様は私たちが担えるストレスだけを与えておられる(コリントⅠ10:13)。私たちはストレスをなくしてくださいと祈り求めるより、ストレスに打ち勝つことのできる力と知恵を与えて下さるように祈らねばならない。ハレルヤ!

コリントⅡ7:10 「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

さな忍耐かせてさい!」

たちにとって本当大事なことをすためには時間がかかる。

つことと忍耐必要である。

聖書にもはすべてにたえしのぶとあるように、たちはちながら忍耐することをばねばならない。

農夫き、ばれるのをつように、ちゃんの出産つおさんも10つように、つことは成熟のしるしである。

いでできるものではない。
するには忍耐必要である。

そしてするさな変化にもびとせをじ、そこにはいはないのである。

“ よりは忍耐してもっとくのことをすことができるという言葉がある。

する忍耐つことができる。
自分成長他人成長をもひたすら期待つことができる。

最近読んだでとても感銘けた紹介したい。エミー・マイケルというりのいたである

忍耐

 季節支配しておられるよ。
 太陽今日規則正しくりました。あなたのしさをじてさい。平和
 一日 からへと仕事っています。
 わたしたちのすがらに さな忍耐かせてさい。
 怠惰身体がつぶやく をしたい気持ちがくなる
 たちの意志堅固してください。
 あなたのひたいには いばらの 御跡には血潮のしたたり
 わたしたちが後戻りすることが けっしてありませんようにには

6−29−15 パクヨンス牧師

「願いが叶えられる前に捧げる感謝!」

ダニエルは感謝の人である。真の感謝は祈りや願いが叶えられる前に捧げる感謝である。ダニエルは2章23節では祈りが叶えられて神に感謝を捧げた。しかし、ダニエル6:10節の感謝は願いが叶えられる前に捧げた感謝である。すなわち逆境や試練の中で信仰によって捧げた感謝である。感謝できるときに感謝するのも素晴らしいことであるが、感謝できない環境の中で神に感謝を捧げるのはもっと貴い感謝である。すべてに感謝するのは神御心である。試練の時に感謝を捧げると試練も力を失ってしまうのである。大切なのは私たちの反応である。自分の人生や信仰生活の最も大きな障害物は自分自身である。神の御心を悟り、試練の中でも、いつどのような時にも神に感謝を捧げる人は、神によって心と考えが守られる。私たちは偶然にこの世に生まれた者ではない。私たちは神の大切な子供である。私たちはそれぞれ神様から与えられた夢を成すために生まれたものである。感謝は小さな、また大きな奇跡を起こす力がある。今日も願いが叶えられる前に捧げる感謝出来れば、すべてに感謝を捧げることができる。

ダニエル6:10節「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」

YESとNOを見分けることができる人は、成熟した!   5-4-15



YESとNOを見分けることができる成熟したあるとえる。

YESといながら、NOと、その裏切である。

NOをYESだとい、YESをNOだと偽善者である。

「YESとNO」を同時二重人格者である

「YESとNO」を拒否する機会主義者である


たちはYESとNOを見分けられるでなければならない。

ドイツの格言に「のない許諾よりは、友情ちた拒絶い」という言葉がある。

には自分自身らなければならないことがきる。

そのたち友情ちた拒絶をしなければならない。


数年前国際結婚希望していた男女より相談けたことがある。たち夫婦は、その時二人国際結婚友情ちたNOをった。らのことをし、大事にっていたからNOとえたのである。

それから月後彼らから結婚をするという連絡があった。と、たちは結婚反対していたにもわらず、らはたち夫婦結婚式二次会司会んだのである。そのんで司会大事めながら二人から祝福した。

友情ちたNOであったにもわらず、不思議祝福わったのである。

らはせな夫婦としてらしている

「復活の希望」  3−23−15 

イースターおめでとうございます!

私たちの主イエス・キリストは私たちの罪を赦すために十字架の上で苦しまれ、亡くなられ、葬られ、そして三日目によみがえられました。

CSルイスは言いました。「私は太陽が昇るのを信じているように主を信じる。
単純に太陽が昇るのを見るためだけではなく、その太陽の光りを通して初めてすべてを見ることができるからです。」 本当にとても素晴らしい表現だと思います。朝に太陽が昇る事実を信じるように主を信じるという言葉は、私たちに新たな復活の希望を与えてくれます。

復活されたイエス・キリストが私たちと共におられることが、信じる人の生活は全盛期を迎えていると言えます。
プロセスの中のものは、全部失敗したもののように見えます。しかしモーセの黄金期は神から与えられた使命をすべてを果たし、ネボ山の上でカナンの地を見ながら、死んで行く姿ではありません。

モーセの全盛期はカナンの地に入るために激しい戦いを繰りひろげ、悩み、祈っていた時です。
 
 ヨセフの黄金期も彼がエジプトの総理大臣になって、彼の夢をすべて成し遂げた時でありません。
ヨセフの全盛期は彼の夢が成されるまで、最後まで神を信じ、自分の信仰を守るために神の御前で祈りながら、疑いと誘惑に負けないようにと戦っていた時がヨセフの最高の全盛期であったと言えます。

モーセも、ヨセフも、プロセスの中を見ると、私たちの目には失敗者のように写りますが、失敗したように見えた瞬間が彼らにとっての全盛期なのです。

キリスト者は神から与えられたビジョンと目的を持っています。
ビジョンをもって生きるキリスト者が時々失敗者のように見える時もありますが、それが全盛期であることを覚えましょう。

牧師としての私の全盛期は、大阪府吹田市で開拓をしていた時です。
神によって信徒が一人もいない場所に、礼拝堂も、場所も、謝礼も、何もない所に導かれ、伝道していた時の私の姿は失敗者の姿のように見えたかもしれません。
最初の3ヶ月間、家内が司会、牧師である私が説教し、二人で礼拝を捧げました。

吹田市の江坂で伝道していたある日、神から「あなたは一人の魂の救いのために死ぬことが出来るか?  
それで満足することができるか?」と言われ、自分の計画と思いをすべて捨てて、神にすべてを委ねながら葛藤し、悩み、苦しみの中で神に祈っていました。その時が私にとって全盛期と確信しています。

私たちの全盛期はいつでしょうか?

いま私たちは自分の生活のプロセスだけを見れば、失敗者のように人々に写るかもしれません。
しかし、キリスト者にとって、その時が最高の全盛期であるかもしれない。

 朴(パク)ヨンス 日本語部牧師

「クリスチャンサーファー」


ベニスチャーチの伝道部として活動している阿部秀樹です。

クリスチャン歴3年、サーファー歴30年、これから不定期でキリスト教とサーフィンをメインテーマにブログを発信して行きますので、お楽しみに!